「当たり」の前で止まっていては、当たらない。

当たり前のことを当たり前と思わず、
その先を深堀りして考えることは大切です。
そんな常識の向こう側に、イノベーションがあります。

当たり前のことを当たり前にやる

当たり前のことを否定するような今日のブログタイトルですが、
まず前提として、「当たり前のこと」はとても大切です。

「当たり前のことを当たり前にやる」
という言葉もあります。

これは、ざっくり言うと
「基本的なことをちゃんとやる」という意味ですよね。

どんな仕事にも、「基本」はあります。
そしてその「基本」は、
仕事によってそれぞれです。

それぞれの仕事によって必要とされている
基本の部分をおろそかにしていて、
いい仕事ができるわけではありません。

いわゆるプロフェッショナルな職人たちは、
どれだけ偉大な存在になろうとも、
この「基本」を着実に実行しています。

いわゆる「守・破・離」の、
「守」の部分ですね。
そしてこの「守」の部分が、
無意識に実行できる状態になってはじめて
遊びが生まれてきます。

根が深くて軸がブレないからこそ、
目に見える部分での自由度が高まっているのでしょう。

これを身につけるためには何気に努力が必要です。
私も税理士の修業時代、先生から
「必死の3年」と教わってきました。

今これを聞くとブラックな香りが漂うわけですが、
会社が強要はできないにしても、
自らがそれを大切なことと考えて、
仕事外の時間にどれだけ必死に没頭するか、
ということが大切なように思います。

その当たり前は、当たり前か。

「当たり前のことを当たり前にやる」
ことは大切ですが、
問題は、
『その当たり前が、本当に当たり前のことなのか』
業界それぞれに、会社それぞれに
「常識」と言われていることがありますが、
『その常識は本当に常識なのか』
このフィルターを通すことは、重要です。

その「当たり前のこと」が単なる意味のない習慣であるならば、
それは習慣化する必要のないものですし、
そもそも「当たり前のこと」ではありません。

かつて、某団体の定時総会に、
ネクタイをせずに行ったことがありました。
そのとき
「ネクタイしてこないといけないじゃないか」
と言われて、
「え、そうなんですか?」と尋ねたら、
「当たり前や」と回答されました。

私は当たり前とは思いませんでしたので、
それ以降もネクタイはせずに毎年参加し続けました。
そんな私は組織になじまない面倒くさい人間なのかもしれません(笑)。

ちなみにその後ほどなくして、
「クールビズ」などというものが誕生し、
多くの人がネクタイに疑問を持つようになって、
今ではすっかりネクタイをしてもしなくても
どっちでもいいようになりました。

「当たり前」であることには、
それが「当たり前」になった意味が必ずあると思います。
それが良い仕事をしていくうえで欠かせない基本であるからなのか。
組織としての風紀を維持するために必要だからなのか。

それがよくわからなくなってしまった「常識」などは
早々に取り払ってしまうべきかなと思います。

そんな意味で、
「当たり前のことを当たり前にやる」
という言葉と、
もう一つ会社内でよく言われる、
「常識を疑え」
という言葉は矛盾しません。

「常識を疑え」は「常識に逆らえ」と言っているわけではありません。
疑って論理的に検証した結果
それがちゃんと意味があるものであるのであれば、
その常識は常識のまま置いておくべきものです。
逆に結果として、
これは単なる習慣で、意味などないな、とわかったら、
それは「常識」「当たり前のこと」
と考えなくていいんじゃないかと思います。

当たり前の向こう側

多くの人は、案外、
「当たり前」
「当然」
「常識」
そんなものに囚われまくっています。

囚われている、というよりも、
「当たり前」と思った瞬間
そこで思考停止しているんじゃないかと思います。

しかし
「なぜそれは当たり前なのか」
と考えると、
それは案外、
当たり前である必要がないこともあります。

するとその当たり前の向こう側が見えます。
逆に「なぜ当たり前とされているのか」がわかることで、
その事柄について
深く考える機会を得られたりもします。

「当たり」の前で立ち止まっていては、
おもしろくありません。
「当たり」の前で止まっていては、
永遠に「当たらない」のです。

ですから、その先の「本当の当たり」を得るために
当たり前の段階で思考停止しないようにしましょう。

そしてその「本当の当たり」というのは、
そこに潜む物事の本質であったり、
当たり前を超えたイノベーションであったり
するのだろうと思います。

ちなみに今回は言葉遊びで、
「当たり前」を「当たりの手前」と解釈しましたが、
本来「当たり前」という言葉はそういう意味ではなく、
「当然」という言葉に「当前」という字があてられ、
それが訓読みされた、というのが、
語源としては正しいようです(これも「そういわれている」というレベルですが)。

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