誰にも負けない努力をする、をどう解釈するか。

2か月ほど前(令和4年8月)に、
平成の大経営者、稲盛和夫氏がお亡くなりになりました。
氏が掲げる「経営の12か条」に「誰にも負けない努力をする」という言葉があります。
それを受けて私が考える誰にも負けない努力について。
あくまで「私の見解」ですので、そこはご理解のほどお願いします。

京セラの理念を借用する?

稲盛和夫氏はその経営に対する考え方を多くの経営者に伝え、
それによって数多くの経営者が学びを深めて企業を成長させていきました。

その教えは「京セラフィロソフィ」という形で、
いわゆる経営哲学としてまとめられいます。

この京セラフィロソフィに傾倒し、
それを自社の経営に活かして素晴らしい経営をされている方もおられますが、
それだけに京セラフィロソフィを宗教的として敬遠する方がおられるのも事実です。

しかし、
そこから学べるものを経営者自身が
自分の経営に落とし込んで自分なりに解釈し、
それを実学として自社を良い会社にしていく、ということが大切なのであって、
そのお題目やそこに書かれていることを深く考えず
そのまま自社に取り入れると、
それは相当おかしなことになります。

京セラの経営理念に
「物心両面の幸せ」
という文言がありますが、
その言葉を自社の経営理念にそのまま取り入れている会社が多くあります。
経営理念にこの文言を目にしたら、
その会社は経営者が稲盛和夫氏に傾倒していると考えて間違いありません。

それ自体は経営者が自分を高めようとする意識をもっているという意味で、
素晴らしいことだとは思いますが、
問題は、その言葉をどこまで自分なりに深く考えているのか、
ということです。

自社にとっての、物心とは?
自社にとっての幸せとは?

そんなことを深堀りすることなく、
とりあえず理念に気軽に「物心両面の幸せ」などと記載するので、
「宗教的」と言われてしまうのだろうと思います。

京セラ理念に含まれるその言葉を経営者が
自分なりに、自社なりに解釈していけば、
それは自然と別の言葉として表現されるだろうと思いますし、
それがその経営者の言葉として表現されているからこそ、
その経営理念はその経営者自身の魂が込められたものになります。

軽々しく「いい言葉だなぁ」くらいの気持ちでその言葉を借用しても、
それはまさに借り物。
そんなものでは人々の共感を生むことはありません。

もちろん、この「物心両面の幸せ」という言葉をそのまま借用しつつ、
素晴らしい会社を作り上げられている経営者さんもいらっしゃいます。
その経営者はおそらくちゃんとこの言葉を自分に置き換えて深め、解釈し、
そのうえで結果としてその言葉をそのまま使っているのだろうと思います。

この言葉をそのまま使用しているすべての経営者を批判しているわけではありませんので、
そこのところはご了承くださいませ。

努力の質にもこだわる

さて、前段がとても長くなってしまいましたが、
冒頭に挙げました、「誰にも負けない努力をする」
という言葉について。

「誰にも負けない」とはどういうことなのでしょう?
屁理屈であることを承知のうえで、この言葉をそのまま理解すると、
『自分より努力している人は必ずいて、本当に誰にも負けない努力をしている人はこの世に一人だけ』、
ということになってしまい、
事実上「誰にも負けない努力をする」ことは不可能です。

ですからこれは一種の比喩表現であると捉えるべきでしょう。
そしてこの言葉を真に受けて、
とにかく朝から晩まで仕事をしている経営者を何人も見てきました。
そして自分は努力をしている、ということで
それを免罪符のように考えている人も、何人も見てきました。

「努力」というのは何も、長時間働くことではありません。
その努力が勉強のためのものであれ経営のためのものであれ、
まず大切なのは、その努力の「方向」です。

間違った努力を延々続けていても、
それが全く無駄だとはいいませんが、
それは多くの場合報われることはありませんので、
まずは、どの方向で努力をすることが、自社の発展につながるのか、
ということをよくよく考えたうえで、努力を重ねる必要があります。

この「努力」というのは、経営のための努力です。
我々は経営者なのですから、
何も苦行をすることが目的ではないのです。

そして同じ努力でも、
自分にとって楽しいことであったり、
息をするように自然なこととしてできる努力によって得られる成果は、
苦しんで得られる努力よりも圧倒的に大きなものとなります。

ですから努力は、
「傍からみたらめちゃ頑張ってるけど、本人はそれを努力と感じられない」
というのが本来のあり方だと思うのです。
「努力をしていることが苦しい」
「努力をしていても一向に成果がでない」
ということは、
その努力は方向性を間違えている可能性があります。
一度立ち止まって、
「なぜ今の努力はこんなにつらく、実を結ばないのだろう」
ということを考えていただけたらと思います。

自分を追い詰める言葉ではない

この「誰にも負けない努力をする」という言葉、
悪い意味でマジメな人ほど、
この言葉を額面通りに受け止めて、
おかしな方向へ行ってしまいます。

「自分はまだまだ努力が足りない」
「うまくいかないのは、まだ努力が足りないからだ」
というのは、前述のような努力の方向性を考慮にいれなければ、
ただ単に自分を追い詰めるだけのものとなってしまいます。

自分より多くの時間努力している人はいくらでもいますから、
必ずしも努力が足りないなどということはないでしょうし、
方向性が間違っていれば、それは努力が足りないのではなく、
そもそもその努力の仕方に問題がある、ということになるのです。

そんな意味で「誰にも負けない努力をする」という言葉の解釈を間違えると、
それは自社の経営を良くする言葉ではなく、
自らを拘束し、がんじがらめにしてしまう
「呪いの言葉」となってしまいます。

たまにそんな人を見かけると、
「それ、呪いですよ」
と伝えるようにしています(笑)。

人間ずっと緊張感を張り詰めっぱなしで、
いい仕事ができるわけがありません。
全力で努力する瞬間があれば、逆にそれを緩めることも絶対に必要です。

プロ野球の投手OBで現役時代ストッパーをされている、ある方がおっしゃってました。
「試合は見ないで、5回くらいまではマッサージを受けながら寝てる。そして試合の流れだけはつかんで、登板の直前にスイッチを入れる。でないと、身がもたない」と。

「初回から食い入るように試合を見て、気持ちも試合に入り込むことが努力ではない」、
ということがとてもよくわかる言葉でした。

どのようにすれば自分の最高のパフォーマンスを発揮できるのか。
それを考えて工夫して、実践する。
これが正しい努力なんだろうと思います。

先にも述べましたとおり、
稲盛氏の「経営の12か条」は「経営のための」ものです。
京セラフィロソフィは「経営のための」哲学です。
苦行ではありません。

その哲学を自分に落とし込んだとき、自分にとって最も効果的な状態は、
経営者によって、一人一人違うはず。
そして自分にとって最も幸せな状態というのも
経営者一人一人、異なるはずです。

何も努力を重ねて大きな会社を作ることが、
必ずしも幸せではありません。

経営者だって個性をもった人間。
自分がハッピーで、最も社会に貢献できる形って、どんなものなのだろう?
それを強く意識したうえで、自然な努力を重ねるのがいいんじゃないかなぁと
思うのです。
盛和塾の皆さんには「甘い」と言われるかもしれませんが。

タイトルとURLをコピーしました