新型コロナウィルスの蔓延により、
「不要不急」という言葉が世の中にあふれかえりました。
不要不急って、なんなのでしょう?
不要不急の意味を考える
新型コロナウィルス蔓延防止のためにいろんな活動が制限され、
「不要不急の行動を慎むように」
ということが当たり前の時期がありました。
さて、「不要不急」とはどういった意味でしょう?
辞書で調べてみると、だいたい
「どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと」
といったようなことが書かれています。
みなさんのイメージ通りだったと思います。
じゃあ、今回の蔓延防止のときに使われていた不要不急は、
正しくその意味だったのか。
そこには少し違和感をを覚えます。
辞書の言葉通りであれば、「不要」と「不急」は
「不要かつ不急」という意味になるだろうかと思います。
しかし、現実を眺めてみると、
本来的に必要であるものも不急であることが理由で
制限がかけられていました。
このことから考えると、
「不要または不急」という意味で使用されていたように感じます。
不要でなくても不急であれば制限され、
不急でなくても不要であれば制限される。
辞書的な意味合いとは異なるわけですから、
この言葉を公やマスコミが使うときに、
もう少し別な表現はなかったものかな、と思います。
代替案があるわけではありませんが。
私たちは必要のないものだったのか?
私が2か月に一度参加している読書会(?)があります。
先日の課題図書が
「不要不急 苦境と向き合う仏教の智慧」
というものでした。
10人の僧侶がそれぞれの視点から「不要不急」について考えを述べる、
という趣旨の本です。
改めて「不要不急とはなんぞや?」と考えさせられる、
それがいろんな視点から書かれている良本でした。
その中で最初に登場する僧侶、横田南嶺師は、
令和2年2月の講演を最後に9月までのすべての講演・法話・座談会などが
すべてキャンセルまたは延期となり、その中で、
「自分自身の行ってきたことは、不要不急だったのだ」
と身に沁みたそうです。
多くのお坊さんが「不要不急」の意味や、これからの寺院の在り方などについて
思案を続けられたとのことですが、
もちろんこれはお寺に限ったことではありません。
不要不急を「不要かつ不急」という辞書通りの意味でとらえたときには、
コロナ禍のなかで自粛を余儀なくされたコンサートや舞台などの文化活動、
スポーツ観戦などの興業すべてが
「不要だったのか!?」ということになってしまいます。
実際にその業界に身を置いている方ほどそれを実感して
大きなショックを受けたことだろうと思いますし、
実際そうであったというふうに聞いています。
当然のことながら、それらは決して不要なことではないですよね。
他人との接点を避け、外出を控えていく中で、
精神的に追い詰められていく人が出てきたことからもわかるとおり、
活動制限されたこれらのことは決して「不要」なことではありません。
不要なもの不急なものの中にこそ、豊かさが宿る
仕事や経営を考えるときに
「重要度」と「緊急度」の高い低いで4つの象限にわけて、
頭の中の今やるべきことを整理して優先順位を立てる、
という比較的有名なマトリックスがあります。
この中で「重要度が高く、かつ緊急度が低い」というものは、
ほっといても勝手に手を付けるので意識する必要はないのですが、
問題は「重要度が高いが緊急度が低い」という事柄です。
会社経営では、経営計画を考えるとか、新しい商品を開発するとか、
そういったことがここに当てはまってきます。
なぜこれが問題かというと、
本来とても重要だけれども「不急」のために後回しにされる、
または完全にほっとかれる、
ということが起こることです。
しかし本来「重要」なことなわけですから、
ここにしっかり取り組んでいかないと、
当然のように企業はその力を徐々に失っていくことになります。
「不要不急」の本を読んだときに、まずこのことが頭をよぎりました。
もっというと、これら「重要」ということばかりでなく、
一見「無駄」と思われることの中に、
とても大切なものが潜んでいるように思います。
私の基本的な考え方は、
・仕事は効率的で基本的に無駄があってはならない、
しかしプライベートはできるだけ多くの無駄で埋め尽くすべきである
ということ、そして、
・仕事を無駄なく効率的に行う目的は、
それによって「必要な無駄」を行う時間を確保することである。
というものです。
会社内でも、日常業務にひたすら取り組んでいるだけで、
その中からイノベーションが生まれるとは思えません。
効率的にやるべきことはサッサと終わらせてしまって、
余った時間でゆったり仕事のことを考えるとか、
時間を将来への投資に向けることが大切です。
そして、プライベートはさらに「無駄」が必要です。
必要でないものを無駄と呼ぶわけですから、変な言い回しになってしまっていますが。
人間、たまにはボーッともの思いに耽る時間が必要です。
個人差はありますが。
こうしてボーッとしていると、逆に頭の中の普段使っていない部分が
自動的につなぎ合わされるのでしょうか、
ふと新しいアイデアが生まれてきたりします。
もっというと、このボーッとしている時間そのものがとても贅沢なもので、
最も豊かな時間なのかもしれません。
「不要不急」という言葉は私たちに、
「無駄とは何ぞや?」
という問題提起を与えてくれたように思います。
禅問答のようですが、自社にとって私にとって
「無駄とは何ぞや?」ということを考えてみる、良い機会なのかもしれません。