経済なき道徳は、寝言である。

プロフィール記載の通り、
私の尊敬する人物の一人に二宮尊徳がいます。
私の好きな二宮尊徳の名言で、
「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」
というものがあります。
現代語ですので、このまま二宮尊徳が言ったり書いたりしたわけでは当然ありませんし、
その原文に触れたわけでもありませんが、
一般的に二宮尊徳の言葉ということになっています。

道徳なき経済。

道徳なき経済は犯罪である。

まず、この言葉の前半部分です。

「経済」とは、ここでは「おカネを得る活動」と理解すると
わかりやすいと思います。
本来の経済とはこういう意味ではありませんが。

事業の成功や、事業の目的といったものをどこに置くのか、
ということになったときに、これを
「利益を出すこと」としてしまうと、
「お金を稼げば、なんでもいい」ということになってしまいます。

当然そんなわけありませんよね。

社会に価値を生み出したり提供したりしていないのにお金を稼ぐというのは、
泥棒とそんなに変わりません。
「稼ぐ」だけでOKでしたら、
オレオレ詐欺も良しとされるわけですから。

さらに言うと、社会のニーズに応えているとしても、道徳的でないものがあります。
街金などがそれにあたりますよね。
確かに「お金が必要」というニーズがそこにあり、
そのニーズを満たすために高利だけれどもお金を貸す、というサービスがあって、
ニーズと価値の提供が合致しているわけです。

しかし、どう考えても社会悪ですよね。
社会の不安定を生み出しますから。

ですから、道徳なき経済は犯罪なのです。

それではそこまで犯罪でないとしても、
自分一人が儲けたいためにビジネスをしている、
というのはどうでしょう?

顧客を無視して自分だけが稼げばいいというビジネスは、
これは犯罪ではありませんが、
存在すべきではない、という意味で、
この言葉の範疇に入ってくるんじゃないかと思います。

社会のみんながみんな、こんな商売の仕方をしたら、
その社会はとても健全なものとは言えませんから。

そもそもそんなビジネスに継続性がありませんしね。

今だけ稼いで、さっさと稼いですぐやめる。
これが正しい事業であるわけがない。

だからこそ、どんな事業にも「理念」というものが必要なのだろうと思います。
成文化されてようと、されてまいと。

日々の経営の中に社会性があってはじめて、
そのビジネスは継続的に顧客に支持され、
継続性・発展性が生まれるのです。

経済なき道徳は寝言である。

この尊徳の言葉の後半であるこれをタイトルに持ってきたのは、
こっちの方がインパクトがあるからです。

前半は、事業には道徳(社会性)が必要ということでしたが、
後半は、事業には経済(要は、カネ)が必要、
ということです。

よく「顧客第一主義」という会社がありますが、
事業が顧客のためだけのことをひたすら考えていてやっていけるわけがないのです。
値段が安けれは安いほど顧客は喜びますし、
もっというとお金をもらわなければ、その方が顧客は喜ぶわけですから(笑)。

ビジネスですから、価値を提供した以上、
そこに対価が発生する必要があります。
そしてその対価を受け取ってこそ初めて会社は利益を創出することができ、
その利益でもって継続することができるのです。

ですからどれだけ高潔な精神をもった人であったとしても、
お金をもらうことが苦手な人は、あまり経営者には向いていません。

事業である以上、提供価値に相応するお金を受け取って利益を出し、
それを次の投資へと回していくことで、その事業は継続できるし、
発展していくのです。

どれだけ素晴らしい商品・サービスであったとしても、
それが継続できずになくなってしまえば、
それは結果として社会に価値を提供することはできないのです。

だから、二宮尊徳は、経済なき道徳を
「寝言」と断罪しているのです。

収益を目的としないボランティアでも同じことです。
ボランティア活動も「事業」の一種です。
ボランティアですから、価値提供に対して対価を受け取ることはありません。

しかし、活動自体を継続していくためには、
当然お金が必要です。
ボランティア団体はその活動のためのお金を
活動者が自ら身銭を切るか、寄付を募るかして、得ているのです。
そしてその力がないボランティア団体は、
結局継続できずに消えていきます。

結果としてそのボランティア活動が、どれだけ尊い思いの活動であったとしても、
それが継続されることはないのです。

「事業」は社会の役にたってこそ。
しかし同時にお金をどのようにして受け取るのか、ということを設計していないと、
それはまさに「寝言」となってしまうのです。

渋沢栄一の言葉

次の一万円札の肖像として選ばれ、昨年の大河ドラマの主人公となった渋沢栄一も、
次のような言葉を残しています。

いかに仁義道徳が美徳であっても、経済活動を離れては、
真の仁義道徳ではない。
経済活動もまた、仁義道徳に基づかなければ、
決して永続するものではない。

まさにその通りですよね。

すべての事業は、正しく社会に価値を提供するものであるべきですから、
すべからく「社会性」を有している必要があります。
「Social Business」という言葉がありますが、その意味で私は、
全ての事業が「Social Business」だと思っています。

逆にどれだけ社会価値があったとしても、それを継続できなければ、
そこに社会性はないのです。

だからこそ、提供価値に対して適正な価格を設定し、
それを受け取るということがとても大切なのです。

いいものを提供しているのに
「自分の仕事なんて」と卑下して、
自信がなくて低い価格でしかものを売ることができなくて
赤字にしてしまっているようなことはありませんでしょうか?

赤字が続くということは、
いずれその事業は継続できなくなる、
ということです。

自社の提供している価値というものを客観的に判断し、
お客様が喜ぶ最高の価格を設定することを目指す。
これが価格設定の難しいところであり、醍醐味でもあります。


自分のビジネスが「犯罪」とならぬよう、
そしてその理念が「寝言」とならぬよう、
仁義道徳と経済活動の両立をいかに図るかということを、
経営者はもっと真剣に考える必要があると思うのです。

かく言う私も、
どちらかというとお金をいただくのが苦手です。
しかしこの両者の言葉を胸に、強い心をもって、
値引きしないでサービスを提供することを心がけているのです。

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